久保田薫コラム

アメリカ スポーツ用品業界史

第2話
リデル
(Riddell Sports inc.)


リデルと言えばアメリカン フットボールに携わった人ならすぐ ヘルメットを思い出すでしょう。
そのフットボール ヘルメットのメーカーとして全米で知らない人はいないほど有名なリデル社は当時イリノイ州のエバンス高校の数学の教師でもありフットボールチームのコーチをしていたジョン テイト リデルが教え子の運動選手達により機能的で良いスポーツ用品を提供できないものかといつも考えていたが、遂には高校の教師もコーチも辞め1927年 スポーツ用品造りに専念するためデス プレインズに小さな工場と言っても小屋のようなものであったが、とにかくスポーツ用品メーカーとして創業した。

リデルは創業の5年前の1922年に天候やグランドの状況などに合わせてサイズを替えたりするのに、いつでも自由に取り外しの出来る最初のフットボール シューズ用クリーツをデザインし実用化した人物でもあった。

そして、本拠地をシカゴに移し最初のクリーツ取り替え式のソフトボール シューズを生産し、1939年にやはり初めてのモールドタイプ(型に材料を流し込む方法)のバスケットボールを完成させた。 同じ時、それまで布や革製のヘルメットで多くの頭部の負傷者を出し、競技自体の存続も危ぶまれ創業者のジョン リデルが人生を賭して情熱を傾けてきた初の完璧とも言えるプラスティック シェルにサスペンション型(日本では吊り天と呼ばれ一世を風靡した)のフットボール ヘルメットを開発し販売されるようになった。

その後第2次世界大戦が勃発したが、リデルのプラスティック ヘルメットは米軍の全兵士が着用する事にもなった。そして、1945年創業者ジョン テイト リデルはスポーツ用品の開発に全てを賭けた人生の幕を閉じた。

その死の5年後の1950年、ジョンの意志を継承した技術者達は繋ぎ目のない一体型のプラスティック シェルと内部は色々な人の頭の形や温度にもフィットしやすいようなゴム状の材料とプラスティックを混合したサスペンションを開発し、爆発的な人気を呼んだ。当時のシカゴの大手新聞社のシカゴ トリビューン誌もこのヘルメットは画期的な開発で、スポーツ界のみならず戦争でもアメリカに勝利と安全の保証をもたらした最大の用具でもあると絶賛した。
また、それまで殆ど見られなかったフェイスガードも当時のNFLブラウンズのエースQBで大スターでもあったオットー グラハムが着用し大きな話題をよぶこととなり、その顔に傷がつかなかったことで商品は爆発的にヒットした。

その当時現在のようなヘッドフォンによるスポッターシステムなどなかったが、やはりブラウンズのヘッドコーチのポール ブラウンからリデル社に依頼されQBのグラハムのヘルメットにレシーバーを取り付け、通常のラジオの電波を使って会話ができないかとの要望にすぐ実施したが、コーチとの会話とラジオの番組が混線したりで、もし敵のチームが気づいてレシーバーをつけたら二人の会話はすべて盗聴できただろうと後日談として残っている。

このようにリデル社も最初は交換式クリーツの開発からシューズの生産、そして本業のヘルメットの開発生産のみであったが、今はユニフォーム、カジュアル ウエアー、各スポーツの練習器具、野球、ラクロス、バスケットボールなど多くのスポーツの関連商品を世界に向けて生産販売するようになった。

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