さて、同期で同じくドラフトで249番目という下位で指名されたというより、余ったドラフト権でウォルシュが意中のQBをリクルートしている時にたまたまそのQBのパスを巧みに捕球しているレシーバーを覚えていた。
意中のQBはチーフスに先取りされ、代わりに81番目までドラフトされずに残っていたモンタナを仕方なく指名し、余ったドラフト権でドワイト クラークというWRをついでにというようなニュアンスで指名した。(写真・14)
翌80年、モンタナはシーズンの半分の試合に先発として起用されパスで1,795ヤードを獲得し15TDパスを投げ、チームの司令塔として頭角を現し始めた。
一方レシーバーのドワイト クラークも同期のQBでもあるモンタナの信頼に答え16試合中12試合に先発として起用され、パスレシーブで991ヤード獲得し8TDパスをあげている。
そして、1981年モンタナもクラークも共に全試合にスターターとして起用され文字通りチームの顔として全米に知られるようになった。(写真・15・16)
モンタナは前年の2倍の3,565ヤードをパスで稼ぎ19TDパスを決めた。
クラークも当然だがモンタナのターゲットとして1,105ヤード獲得し、モンタナのターゲットが増えた関係もありTD数こそ4TDと減ったがその信頼度は大きく増した。
この年、1972年以来のNFC西地区1位、そしてチーム創設以来初のNFCのチャンピォン、遂には初のスーパーボウルに進出しAFCチャンピォンの因縁のベンガルズをも倒し第16回スーパーボウルで初の王座に就きプロの頂点に立ったのである。
レギュラー シーズン終了時には49ersの人気は沸騰するばかりであった。
もちろん、好成績によるものが大きかったがQBジョー モンタナとWRドワイト クラークの人気が特にすさまじく、モンタナからは暗さが消え透き通るようなブルーの瞳に控えめのはにかんだようなシャイな笑顔が女性のハートをときめかせ、ドワイト クラークは典型的なヤンチャなアメリカン ボーイという表現がピッタリのいたずらっぽいハンサムな顔立ちがやはり女性ファンを熱狂させた。現に二人ともテレビのCMや雑誌のインタビューでもひっぱりだこであった。
後にモンタナはモデルだった女性と結婚し、クラークはミス アメリカを妻として迎えた。
さて、本題に戻すと1981年のシーズン最後のホームゲームであった名RBアール キャンベルを擁したヒューストン オイラーズに完勝し、ニューオリンズでの最終戦のセインツにも21−17で勝ち72年以来のNFC西地区1位になりプレイオフに進出を決めた。
プレイオフ第一ラウンドの対戦相手は地元キャンドルスティック スタジアムにニューヨーク ジァイアンツを迎えての対戦だったが38−24で圧勝し、翌1982年1月10日初のNFCチャンピォンを目指してやはりホームのキャンドルスティック スタジアムに60,525人の大観衆を集め、強豪ダラス カウボーイズを迎えた。
カウボーイズはプレイオフの常連チームで雰囲気に呑まれるようなことはなく悠然としていた。
一方の49ersはレギュラーシーズンの第6戦目にやはりホームにカウボーイズを迎え45−14と完勝しているにも拘わらず初のチャンピォンシップ ゲームの為かどこか落ち着きがなかった。
この時期のサンフランシスコにしては珍しく快晴で大観衆の熱気もあってか思ったよりは寒くなかった。
ゲームは地元49rsがモンタナからソロモンへの8ヤードのTDパスで先制したが、予想通りゲームは伯仲し点のとりあいのシーソーゲームになった。
前半を終えカウボーイズが17−14と3点リードし後半戦にはいった。
第3Qは49ersが7点追加し逆に21−17で最終の第4Qを迎えた。
リードされたカウボーイズは猛反撃をし試合終了まで残り時間4分54秒で27−21と6点リードし遂に逆転した。