久保田薫コラム

アメリカンフットボールの歴史と大統領

第24話
アメリカンフットボールの歴史と大統領の関わり
第3章

1961年、43才という若さでアメリカ国民の熱狂的な支持を受け第35代大統領に就任したジョン F.ケネディは暗殺というその悲劇的且つ謎の多い最後に未だに話題になることが多く、世界的な人気者だった故に関心度も高い。(写真・5)

ケネディ大統領とフットボールの出会いはマサチューセッツ州ブルックリンの私立のデクスター小学校のフットボールチームの選手としての時であった。
そして、ハーヴァード大に進学し、フレッシュマン チームに所属し体重は61kgしか なかったためJVチームのエンドとしてプレーをしたが、後に背中を負傷しフットボールキャリアは終わった。またフットボール以外でも水泳部にも所属していた。

ケネディはことある毎に「フットボールは最も偉大なアメリカの競技であり、自分の人生に最も楽しい時を与えてくれただけでなく、闘う勇気も与えてくれた。
それは、40年も前に観戦した伝統の一戦であるアーミー対ネイヴィ、ハーヴァード対イエールの対抗戦以来ずーっと続いており、当然私もそうだがアメリカ国民が永遠に愛してやまないスポーツであることは間違いないと思う」と述べている。

1969年56才で第37代大統領に就任したリチャード ミルハウス ニクソン(写真・6)は最もフットボールを愛したというより熱狂的なファンであったことでよく知られ、それ故のエピソードも多くフットボール ファンには特に愛されていた。
1926年、ニクソンはフットボールをやりたくてカリフォルニア州のフラートン高校に進学したが大きな成果もあげられず卒業し、ハーヴァード大に進学することが決まっていたが家族の病の治療費用が大きく、実家の西部から東部の大学での生活資金を負担できず、1930年やむなく地元のホイッティアー カレッジに進学しフットボール部にも入部したが成績は学校で2番という好成績で卒業し、1934年に奨学金を受けデューク大法学大学院で念願の法律を学び、後に自身の弁護士事務所開業し弁護士として活躍した。
フットボール部でのポジションはタックルだったが学業とは違いなかなかレギュラーにはなれず殆ど控え選手であった。(写真・7)

後に当時のチームメイトはニクソンについて「とにかくニクソンはフットボールが大好きで試合に出たくて出たくていつもベンチで張り切っていた。コーチがニクソンを呼びフィールドに入れると、やる気満々過ぎて相手より先に飛び出してしまいいつもオフサイドの反則をとられていたのが印象的だった」と語っているように選手としては大成しなかった。大統領に就任後もフットボール好きは変わらず、大学の王座を決めるのにコーチや記者などの投票で決めないで、NFLのスーパーボウルのように最後に真の大学チャンピオンを決める「カレッジ スーパーボウル」を実施するべきだと提案し続けていた。

また、マイアミ ドルフィンズが17連勝の記録を作りスーパーボウルに出場が決まった時に、当時のヘッドコーチでしかも名コーチとしての誉れが高いドン シュラーに「今度の試合で使用したら良いプレーがある」と長々と電話してきたという話は余りにも有名である。(写真・8)
そんなフットボール好きのニクソンも妻が死去した翌年の1994年4月22日に後を追うようにニューヨークで脳卒中で倒れそのまま81才で生涯を閉じた。

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