久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第19話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第9章

ともあれ、この大スターのジム ソープを擁してポップ ワーナーは「カーライル インディアン工業学校」を地方の田舎校から一躍全国区にのしあげ「全米NO.1」の地位まで上り詰めるほどの勢いであった。 それはワーナーの生涯勝利数がエイモス アロンゾ スタッグの314勝に僅か1勝少ない313勝であることを思えばいかに凄いコーチであったかが判る。

ポップ ワーナーは1899年から1903年までカーライル工業学校を指導するが、その後母校のコーネル大で法学部の助手をしながらコーチをしていたが当時の学生がまだ若いワーナーの背中に「POP」と書いたタグを貼り付けたのがニックネームのポップの由来であるが、1907年に再びカーライル工業学校を指導することになった。

ポップ ワーナーは試合に勝つためにはルールで許される範囲内でありとあらゆるフォーメイション、プレー、戦略などを考案し実践した。 ダブルウイング、シングルウイング フォーメイションを駆使したパイオニアでもあり、今ではどこのチームのプレーブックにあるリバース プレーなどもポップ ワーナーが最初だったと云われている。 このシングル ウイングからのプレーを研究し当時無名だったノートルダム大学をチャンピオンに導いたのが伝説のコーチ ニュート ロックニーであった。

ロックニーはその為にニューヨークまで歴史的な試合と云われているワーナー率いるスタンフォード対強豪アーミー(陸軍士官学校)の試合を観に行ったほどである。 しかし、当時はまだフットボールの夜明けの時代で誰かが何か新しいことを始めると、それが全て歴史上最初に実施されたということになりがちで、当時のコーチは自分が最初にやったという人が何人もいてレコードブック等で残っているものだけが最初の実行者として残されている事が多いが、実際はどこかで無名のチームの無名のコーチが先に実践していたかも知れません。

いずれにせよ、ポップ ワーナーは改革者でもありアイデアマンであった事には間違いなく、例えばジャージィにボールの絵を描いて誰が本当のボールキャリアか判らないようにしたり、ジャージィの中にボールを隠して一人だけ逆方向に走らせて得点をあげたり、今では信じられない数多くのトリック プレーの発案者でもあった。 また子供が大好きでどこに遠征に行っても時間があればいつも子供達を集めて指導をしていた。現在アメリカの少年フットボール リーグで最大の組織を誇るユース リーグは子供好きのポップ ワーナーの名をとり「ポップ ワーナー リーグ」と呼ばれ、毎年12月にフロリダ州のオーランドでポップ ワーナーの名を冠した少年達による「全米選手権試合」が行われている。
そのポップ ワーナーも1954年83才で生涯を終えるがその3年前に記者投票で「Coach of the Year」(全米年間最優秀コーチ)に選ばれ有終の美を飾った。

前述したように史上初の有給コーチは1892年にシカゴ大学のヘッドコーチに就任したエイモス アロンゾ スタッグだと云われているが、以降1900年代に入って有給コーチを採用する大学が増えていった。 当時、まだフットボール界では無名だったオーバン大も優秀なヘッドコーチを採用した。現在も大学のフットボール界の最も優秀な選手に贈られる賞にその名を冠せられているジョン ウィリアム ハイズマンで(写真・21)、このハイズマン賞(写真・21A)は選手にとっては最も名誉な賞であり、シーズン終盤には誰がその栄誉に輝くのか毎年話題になるほどである。

ハイズマンはオハイオ州オバーリン校で勝ち続けておりプロの中のプロと云われていた。1892年から1927年までオバーリン、バクテル(現在のアクロン)、オーバーン、クレムソン、ジョージア工科、ペンシルバニア、ワシントン、ジェファーソン、ライスの各大学のコーチとして活躍した。
1927年から亡くなる1936年までニューヨークのダウンタウン アスレティック クラブの体育局長を務めていた。

現在でもハイズマン トロフィーの授賞式はこのクラブで行われているが、第1回は1935年でDAC トロフィーという名前で表彰式が行われていたが、翌年の1936年にハイズマンが亡くなり第2回からその名をとってハイズマン トロフィーとなり現在に至っている。
ハイズマンは当時では珍しく二つの大学に行ったフットボール選手で、中でも最も活躍した選手のひとりであったと云われている。

1887年から1889年まではブラウン大でタックルのポジション、1890年から1891年までペンシルバニア大でエンドとしてプレーし活躍した。
彼は元々弁護士の資格を有し弁護士を目指していたが、フットボールに夢中になりコーチの道を歩むことになった。

ハイズマンは何事に於いても完璧主義者であったが、優秀さや独創性はもちろんフットボール界への貢献度などいずれの点でもウォルター キャンプ、アロンゾ スタッグ、ポップ ワーナー等の各コーチと並び称せられるほどのコーチであった事には間違いない。
彼は1895年ポップ ワーナー率いるジョージア大とノースカロライナ大との対戦を観てフォワード パスの有効性を学んだ。

観戦後、ハイズマンは「フォワード パスはケガを少なくできるだけではなく、プレーを大きくダイナミックに展開することができる」と後に語った。
しかし、そのハイズマンも1906年まではまだ上手くパスを使いこなすことができなかった。 だが、チームに戻ると連日そのフォワード パスの猛訓練を始め、最終的には当時最も有効且つ上手くフォワード パスを使いこなしたコーチとしても名を馳せることになった。

また、ジャージィの下にボールを隠すトリックプレーはポップ ワーナーが最初に使ったとされているが、実際は1895年ハイズマンがオーバーン大のコーチをしている時に先に使っていたという説もあり、Tーフォーメイションも1894年にハイズマンが既に使用していたとも云われている。
このT−フォーメイションを使って1889年から1899年の間、東部地区で旋風を巻き起こしていたのがプリンストン大であった。

当時のプリンストン大のフットボール部には詩人として有名だったエドガー アラン ポー家の甥っ子達で6人の兄弟(Poe Brothers)(写真・22)がプレーしていた。 ちなみに日本の有名な推理作家の江戸川 乱歩はこの詩人のエドガー アラン ポーからヒントを得て名を拝借したと云われているが本当のことは会って聞いた訳でもないので不明です。

1920年代はアメリカのスポーツ界にとってはまさしく黄金期であり多くのヒーローが誕生した。
プロ野球のベーブ ルース、ゴルフのボビー ジョーンズ、テニスではビル ティルデンとヘレン ミルズ、ボクシングではジャック デンプシー、水泳ではジョニー ワイズミューラー(後に映画のターザン役で活躍した)、そしてフットボールでは伝説のコーチ ニュート ケネス ロックニィ(Knute Kenneth Rockne)、彼等の名はアメリカのみならず世界中で現在でも語り継がれている。(写真・23)
しかし、ロックニィはフットボール自体がワールドワイドなスポーツでないため、世界的に知られることは他のヒーロー達と比べると比較的少ないかも知れないが、逆にロックニィの名はアメリカでは数々の伝説を残しアメリカ人の心に一番残っているヒーローと云っても過言ではないでしょう。

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