久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第14話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第4章

ハロー、ウィンチェスター、イートン フィールド ゲーム等の各フットボールは手を使うことはあってもボールを持って走ることを認めていない、即ち現在のサッカーの原点ともいえるボールを足でドリブルするフットボールを行っていた。

1820年ごろはまだボールを持って走ってもいいというルールが確立されていなかった。 ところが1823年、ラグビー校でフットボールの試合中にエリスという少年が突然ボールを持って走り出し、一気にゴールまで駆け抜けた。これがラグビー フットボールの始まりであるという話は殆どの人が御存知の事と思います。(写真・3A)

この後世まで残るランを披露したウィリアム ウェッブ エリスの名はフットボールが存続する限り決して忘れられる事はないでしょう。

ラグビー校を卒業したエリスはブレイスノーズ カレッジに進学し神学を学び、卒業後教会の牧師になったが、1872年1月24日に66才の生涯を終えた。

ラグビーという名前はここから名付けられた事は事実ですが、ラグビー フットボールの正式な起源かどうかは定かではなく、ボールを持って走ったという明らかな史料でこれより古い物は残っていないのが事実なのです。 1841年にラグビー校のルール作成担当者が、これまでのフットボールのルールを明確にする事が必要で、ボールを持って走る事は正当な行為であると主張すべきだと提案した。だが意外にもラグビー校の学生達はラグビー ユニオンが組織化された3年後の1874年までそのルールを正式に適用することはなかった。 現実に1872年に行われた最初のフットボール国際試合と云われているイングランド対スコットランドの試合は一度も手でボールを拾い上げる事はなかった。(写真・3)

パブリック スクールを中心としたフットボールチームはオックスフォードやケンブリッジでルールの明確化について話し合っていた。

1837〜1842年の間にケンブリッジでクラブ チームのメンバーが集まってルールの下案が作られた。 そして、1848年にパブリック スクールを中心にした14人のメンバーで7時間かけてフットボールのルールが決められた、これが「ケンブリッジ ルール」と云われているもので現在シュルースバリー校の図書館に残されている。

当然、ラグビー校のメンバーもこの会議に出席していたがボールを持って走る事は認められず、徐々にこのグループから遠ざかっていくことになった。 1863年の秋にはルール委員会での論調は激しい口調になり、ラグビー校のメンバーは遂に席を立つようなことが起こる。
それは、サッカーの関係者にとっては記念すべき日でもあり誰もが認識している歴史的な一日でもあった。

1863年10月26日、ロンドンのグレート クィーンズ通りにあるフリーメイソンズ タバーンで多くのパブリック スクールのOB達、もちろんケンブリッジ大も席についたがこの会議には中立の立場で出席し、当時「Association」と云われていたそれまでの会合のメンバーと12のクラブの代表者が同席し、正式なフットボールの統一ルールを決める会議が行われた。

クロスバーのないゴールの使用やラグビーのルールなども取り入れる案も提案されたが、決定的な違いは13項目あるルールの中の第9項と第10項で、ラグビー スタイルの支持者は第9項をボールを持って相手ゴールに向かって走れるとし、第10項でもボールを持って走っている選手のスネを蹴っても、足を引っかけても構わないとし、他のメンバーはどの選手もボール持って走ってはいけないとし、足をひっかけたり、スネを蹴るような乱暴とも思える行為は厳禁で、手を使うことも禁止するとした。

ここでラグビー フットボールと後にサッカーとも呼ばれるアソシエイション フットボールとの決定的な決別がなされ、逆にサッカーと呼ばれる語源の元となった組織「Football Association」が誕生し、このゲームを「Association Football」(写真・4)と云われ、前述したように「Association」の「Soc」を残し、それをやる人という意味の「er」が付けられ「Soccer」(サッカー)となりやがて世界に普及していった。

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