久保田薫コラム

アメフトのヘルメット以外の装具の歴史

第9話
アメフトのヘルメット以外の装具の歴史
第2章


プラスティック製のショルダーパッドが登場するのは1960年以降で柔らかいスポンジ状のパッドが内側に付けられ非常に安全なパッドが作られるようになった。(写真6)

ではその装具を覆っているジャージィはどうだったのでしょうか。 サッカー、ラグビー、及びイタリアではカルチョと呼ばれていた球技をひとくくりにしてフットボールと呼ばれていたころはスポーツというより遊びから闘いという広い範囲での球技でもあったと思われる。 選手の人数もフィールドの大きさも決められたものはなくボールも動物の内蔵に砂やボロ布を詰めたものが使用されており、その起源も戦争で切り取った相手の王の首を投げたり蹴ったことからだという説もあるほどで、ユニフォームなどとても存在するはずがありません。

色の規制や番号を付けるとか選手を認識する必要性がなかったため選手が好き勝手なものを着用していたと思われます。

正式にユニフォームとして認められているのは1875年のハーバード大とイエール大の伝統の試合で両選手が着用したもので厚手のキャンバス地で作られたものですが、そのモグラの皮のような分厚い生地で作られた番号のついていないジャージィの下にもし布等のパッド状のものを入れているのを見つけられるとチームメイトから弱虫と罵倒されるのが当時の風潮でした。

そして、1876年のイエール大(アメリカン フットボールの父と云われているウォルター キャンプも後列の左から4番目に写っている)は中央でボールを持っているキャプテン以外は全員キャップをかぶり、前にチームの頭文字のYと刺繍されたジャージィと細身のパンツ、ストッキング、もっと驚かされる事は当時ブーツと云われたハイカット シューズを全員揃えて履いていることである。(写真7)

また、ヘルメットさえも着用していない時代にネックロールなどあるはずがないが、当時のプリンストン大の選手達は防寒の意味もあったが頭髪を伸ばして頭を保護したように、首を保護する意味でもタートルネックのジャージィを着用していた。(写真8)

そして、ジャージィの前後に正式に番号を付けるように決められたのは1937年になってからである。 そもそも、1889年に最初のオールアメリカン チームが発表されたが1915年までその選手の名前をハッキリと認識できることはなかったことが原因でその為にユニフォームの前後に番号がつけられることになったのである。

その後ボールを持てる選手とそうでない選手を区別しやすいようにポジション別に番号を決めたのは1967年になってからである。 では少し息抜きにユニフォームにまつわる嘘のような本当の話を書いておきましょう。 1954年に83才で亡くなったアメリカの最も偉大なコーチの一人に挙げられ、ユース フットボールの普及にも熱心であったグレン ポップ ワーナーは数々の名勝負を残しているが、トリック プレーや奇策のアイデアでも群を抜いていた。

まだユニフォームの規約がない頃、自軍の選手全員の胸に大きくフットボールの絵を描いたジャージィを着せ試合に臨んだのである。目的は誰が実際にボールを持っているのかわかりにくくするためであったが、実際相手のチームは混乱したという、しかし審判にとがめられることはなく大勝した。 その後、ジャージィの色はボールと同じ色のものはダメという規約ができボールの絵などを描くことも禁じられた。

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