入団後のモンタナは新人の1979年は1試合だけ先発し、翌80年は7試合に先発し頭角を現し始めた。
実際、試合でも2番手に出て来たが大した活躍もしなかったような記憶しか残っていなかった。
このJapan Bowlに選ばれた選手の中にはNFLのスカウトから高評価をされている選手が大半であったが、中には殆ど評価されていない選手も含まれていることがあり、そんな中からNFLでもやっていける選手を見いだすのが私の個人的な楽しみであった。
モンタナも評価の低い部類に含まれていたので逆に楽しみにインタビューに行ったが、会ってやはりこれではNFLは無理かなと思ってしまうほどであった。
そして、前述した81年49ersのシーズン最後となるホームゲーム ヒューストン オイラーズ戦に勝利しプレイオフ出場を決めた試合終了後ちょっとした事件が起こった。
ワイチが声をかけると蚊の鳴くような情けない声で「モンタナを殺してやる、スタジアムにも爆弾をしかけた」と電話があったと言われ、「とりあえず人目につかない場所でジッとしているように」と言われたと答えた。
不思議なことに彼のそばに警備員やガードマンは一人もついておらず心配なので我々もその横に座ることにした。
東京であった時と大して変わったと思えず、相変わらず弱々しい感じは同じであった。
結局1時間ほどしてから何事もなくスタジアムを出ることができワイチがモンタナに家まで送ろうかと聞くと「今日は車を置いてキャブ(タクシー)で帰る」と言い別れた。
爆弾騒ぎが解決するまでの約1時間の間、モンタナは日本で私と会ったことも思い出したようで、急に明るくなり大学時代の事、日本への興味 特に京都など古都に関心があり機会があれば是非訪問したいということ(実際はその後に京都観光に夫人同伴で来日し再会することになる)など話すうちに時間が過ぎた。
ワイチは私をダウンタウンのホテルまで送ってくれ、着いてから部屋でまた49ersのプレーブック(写真・12)を開きオフェンスのシステムについて熱心に教えてくれた。(写真・13)
この数週間後何か陰があり暗い感じのおよそNFLのスターQBらしからぬ風情だったモンタナが豹変し全米に注目されることになる。