久保田薫コラム

久保田 薫 アメフト マンダラ

第29話
久保田 薫 アメフト マンダラ
其の1 ビル ウォルシュとの出会い(4)

さて、本題のチャージャーズのオフェンス コーディネーターに就任したビル ウォルシュの話に戻すと、ウォルシュのコーチ歴は長く、どちらかと言えば大器晩成型で若い頃は苦労が多かったのではと思われる。

ウォルシュが初めてヘッドコーチに就任したのは1957年カルフォルニア州フェアーモントにあるワシントン ユニオン高校で、彼が就任するまで過去3年間で勝ったのは僅か1度だけだったが、ウォルシュがヘッドコーチに就任するとすぐ9勝1敗の成績を収め地区優勝するほどになった。

1960〜62年には後のプロ コーチとしての成功への道案内人とも云えるマーブ リーヴィの率いるカリフォルニア大学のディフェンス コーディネーターを務め、1963年からは3年間当時のカレッジ フットボール界の一大派閥であったジョン ラルストン率いるスタンフォード大学でラルストン ヘッドコーチの補佐とDBコーチを務めた。

1966年、NFLのコーチとして歩み出し、アル デイビス率いるオークランド レイダースのオフェンスのバックス コーチを務め、1年後にポール ブラウンがヘッドコーチを務めるベンガルズにパス攻撃コーディネーター、QB、WRコーチを務め攻撃のプレーコールも任されるほどブラウンに信頼されていた。

そのブラウンが1975年に引退を表明したが、その時メディアやファンも次期ヘッドコーチは100%ビル ウォルシュだと思い込んでいたところ予想もしないビル タイガー ジョンソンがヘッドコ−チに指名され、プロ フットボール界は一時騒然とした。 私もそうだったがウォルシュ自身も当然自分がヘッドコーチに指名されると思い込んでいたようであった。(写真・6)

この時のベンガルズのヘッドコーチ就任劇にまつわる実際の話は本当にひどいものだった。

ウォルシュは高校のコーチを3年、カレッジのアシスタント コーチを6年、NFLのアシスタントをチャージャーズも含めると10年と下積みは短いものではなかった。

苦労も多かったが水泳のコーチや選手としてボクシングもやった経験があるがやはりフットボールの面白さにはどの競技も勝てないと思うし、基本的にフットボールが大好きだったことがそれまで我慢できたことだと思うとも言っていた。

ポール ブラウンはウォルシュの才能を早くから見抜いており、ウォルシュがベンガルズのアシスタントとして在籍した8年間の間、毎年のようにNFLの他のチームからヘッドコーチ就任のオファーがあったがブラウンがウォルシュに知らせず全て潰していた。

そして、自身が引退する時にもNFL全チームにウォルシュをヘッドコーチとして要請しないように圧力をかけ妨害していたという。ウォルシュはまさかあのポール ブラウンが自分の出世を妨害しているなんてそんなことは全く知らなかったし信じるはずもなかった。だが後にその話を聞かされ目の前が真っ暗になったという。

そのショックは余りにも大きかったが、カリフォルニアンとして同じラルストンの門下生でもあり良い意味でのライバルでもあった親友のマイク ホワイトはすでにヘッドコーチとして注目をあびており、この時もカリフォルニア大学のヘッドコーチとして活躍しており、NFLのサンフランシスコ 49ersからも声がかかりそうな気配であった。

そんなことも重なり傷心の思いで8年も務めたシンシナティの土地を離れ地元のカリフォルニアに帰ることを考えたが、ウォルシュにはサンフランシスコ、オークランドからは何のオファーもなく、失意のどん底の時にサンディエゴ チャージャーズからアシスタント コーチとしてのオファーがきた。とにかく大好きなカリフォルニアには違いないのですぐその話を引き受けることにした。(写真・7)

そんな時に私はビル ウォルシュに出会ったのである。

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