久保田薫コラム

アメリカンフットボールの歴史と大統領

第25話
アメリカンフットボールの歴史と大統領の関わり
第4章

歴代大統領の中では選手としても途中で辞めることもなく、しかも優秀な選手として挙げられコーチまで務めたのは1974年61才で第38代大統領に就任したジェラルド ルドルフ フォードの右に出る者はいないだろう。(写真・9)
ミシガン州グランド ラピッドのサウス高校でのフォードは町はもちろん州の代表選手にも選ばれるほどでラインバッカーとセンターのポジションで活躍していた。

強豪のミシガン大に進学したフォードは身長188cm、体重は少し大目にサバを読み90kgと自己申告しやはりラインバッカー、センターとしてプレーすることになった。 1934年にはミシガン大のMVPに選ばれ、ビッグ10のベスト11にも選ばれるほどで、サンフランシスコで行われる大学オールスターゲームのシュライン ボウルにも選抜された。
(写真・10)
そして、卒業する時はグリーンベイ パッカーズ、デトロイト ライオンズ等からオファーがあったが、フォードはプロでプレーすることより指導者の道を選び、イエール大のコーチに就任した。後に大統領よりもカレッジのヘッドコーチになりたかったと述懐しているほどコーチ業に憧れていたようである。

そのフォードもミシガン大に入学時は新人ながら色々な賞をもらうほど将来を嘱望されていたが、上級生になってからのミシガン大の無敗のシーズンの時は、同じポジションにオール アメリカンのチャック バーナードがいた為ベンチを暖める事が多かった。
1976年フォード大統領がアイオワに遊説に来たときにほんの少しだが話す機会があり、日本のフットボールの話をすると随分と驚きサッカーではないのかと何度も聞き直されるほどだったが、フットボールが本当に好きなんだということが印象に残っている。

そして、ハリウッドのスターでもあった第40代大統領のロナルド レーガンは1981年に69才という歴代大統領としては最も高齢の就任でもあった。(写真・11)
1926年イリノイ州のディクソン高校ではレギュラーとして活躍し、1928年ユーレカ カレッジに進学するが控えのオフェンス ラインマンとして少しプレーした程度で、コーチもレーガンは足が遅くて選手として起用するのは難しかったと云っているようにその後はプレーするより試合を報道する大学の新聞部の記者としての活躍のほうが多かった。 大学でメディアの道を少しだが経験したレーガンは、1932年アイオワ州ダヴェンポートのラジオ局でスポーツ キャスターをすることになった。

レーガンにとっての最初のフットボール ゲームの生中継はアイオワ大対ブラッドリィ大の試合で10ドルの報酬を受け取った。(写真・12) そして、1940年ハリウッド スターへの足がかりになる大ヒット映画、「ニュート ロックニィ物語」のジョージ ギップの役を演じ、既に大スターであったロックニィ役のパット オブライエンをも凌ぐ演技力で映画俳優として認められた。 この時の映画監督はレーガンからはフットボール選手らしさが溢れんばかりで適役であったと述べている。

1989年には東京ドームで行われたプロ野球日本シリーズ第3戦で始球式を行っている。 タフが売り物であったレーガンも病には勝てず、1994年11月5日全米の国民に向けて自身がアルツハイマー病であることを公表した。 その約10年後の2004年6月5日、ロスアンゼルス近郊のベルエアーの自宅で肺炎の為死去しその波乱に富んだ人生の幕を閉じた。 第34代大統領アイゼンハワー以来初めての2期8年の任期を全うした大統領でもあった。

−完−
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