久保田薫コラム

アメリカンフットボールの歴史と大統領

第23話
アメリカンフットボールの歴史と大統領の関わり
第2章

大統領のフットボールを語るとき、IKE(アイク)の愛称で親しまれ1953年62才の時、第34代大統領に就任したドワイト デービッド アイゼンハワーの名は不可欠であろう。(写真・3)

アイゼンハワーはアーミー(陸軍士官学校)のハーフバックとして大活躍していた時、膝(ヒザ)にフットボール生命を絶たれるような大けがを負うが、もしこのケガが無かったらNFLのドラフト1位は間違いないと云われるほどの名ランニングバックだったと云われており、一説によるとプロフットボールの選手になれなかったので仕方なく大統領になったという話がまことしやかに流れるほどであった。

子供の頃アイクはフットボール型をしたスイカをボールに見立てて兄のエドと近所の子供達とフットボール遊びを日が暮れるまでしていた。
また、地元の草フットボールチームにも入ってランニングバックとして活躍していた。
1908年、アイクの通っていたカンサスのアビリーン高校は僅か13名しか部員がいなかったがアイクの活躍もあって7勝−0敗−0分と完勝のシーズンを終えた。

1910年、アビリーン高校のフットボール部の選手数が不足していた為、アイクは卒業していたにも拘わらずOBとしてもう1年チームに参加させられていた。 その後West Point(陸軍士官学校の通称)に進学したアイクは1912年、2年生の時に5試合終了した時点で、時のニューヨーク タイムスに「アイゼンハワーは東部地区のベストバックのひとりに入る」と大々的に報道され、以来アイゼンハワーは「カンサス サイクロン」と呼ばれるようになっていった。
(写真・4)

1912年、アーミー対イエールの試合が行われ、試合時間について両チームで25分ハーフで実施するのか30分ハーフで実施するのか検討され、結局25分ハーフで実施することに決まったが、アイクは30分ハーフを主張していた。

試合はイエール大が6−0でアーミーを倒したが、アーミーは残り時間僅かのところ自軍のペナルティで逆転できずアイクは殆ど一人でボールを持って頑張ったが、努力は報いられる事はなく幕を閉じた。その後、この試合の影響があったかどうかは定かではないが、1921年まで両校の対戦は実施されることはなかった。
また、この年アイクは史上最高のアスリートと云われているインディアン カーライル校のジム ソープとも対戦している。

足首を痛めていたアイクはこの試合ではスターターではなかったが戦前からアイクとソープの対決はニューヨークタイムスなどで話題になっていた。
しかし、この頃のソープはストックホルム オリンピックで五種、十種の両競技で金メダルを獲得した年でもあり、絶対にタックルできないと云われるほど絶頂期でもあった。

アイクとのアーミー戦でもソープは独走タッチダウンをあげたがペナルティでキャンセルされ、その直後のプレーでも100ヤード近い距離を一気にゴールまで駆け込むという離れ業をやってのけるほどで、アーミーは27−6で敗れた。

そして、1週間後のタフト大との試合でアイクはヒザを痛め、アーミーでのフットボール キャリアを終えることになるが、以降2度とフットボールをすることはなかった。
30日も入院していたが、ヒザから下が黒ずみ医者は足の切断を宣言するがアイクは兄のエドにベッドサイドに居るよう頼み、医者が来たら絶対に足を切断するからそれを阻止するためにガードして欲しいとすがり、それをい聞いた敬虔(けいけん)なクリスチャンでもある母が毎日お祈りを続けたところ、その4日後に奇跡が起き黒ずんでいた足の色は元の肌色に戻っていた。

その後、米軍の総指揮官にもなったアイクは米軍基地のフットボールチームからコーチの要請を受けるが1926年にジョージア州のフォートベニング基地のバックスをコーチした以外は引き受ける事はなかった。

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