久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第21話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第11章

その1週間後、ジョージ ギップは前週の無理がたたったのか悪性の風邪を引いて寝込んでいた為、ノースウエスタン大戦はベンチで休養し出場しないことにしていた。
ところが観衆は「ギップを出せ、ギップを出せ」と大声で叫び続け収まる様子はなかった。
ロックニィは仕方なくベンチのギップに聞くと、すぐフィールドに飛び出し2回パスを投げたが2回とも失敗し、見かねたロックニィは慌ててギップをベンチに戻した。
その後ギップは2度とプレーすることはなかった。

風邪から扁桃腺炎が悪化し、ウイルス性感染症から肺炎を併発し、喉頭炎にもかかっていた。当時はウイルス性疾患に効果のある薬などなく死を待つだけであった。
ロックニィはベッドサイドで華麗だった弱冠23才の短い人生が霞のようにぼやけて消えていくのをぼんやりとうつろな目でただ黙って見ているしかなかった。

ギップは天国に召される直前に殆ど聞こえないようなかすれ声で「コーチ、もしこの偉大なノートルダム大が苦しい試合をするような時があったら、是非私の話を選手達に聞かせ、ギップが天国から応援しているから頑張れと伝えて下さい」とロックニィの手を握ったまま天国に旅立った。

1924年ニューヨークで行われたアーミーとの試合でロックニィは全米を驚かせるようなことを披露した。
QB(クォーターバック、HB(ハーフバック)、FB(フルバック)のバックス陣4人(HBは2人)にそれぞれヘルメット、ショルダーパッドなど装着させ試合に登場するユニフォーム姿のまま馬に乗せ1人づつにボールを持たせ、その4人に「フォー ホースメン」と名付けて新聞記者に写真を撮らせた。(写真・26) この試合に12−7で勝ったノートルダム大の闘い振りを報道するのに翌日の全紙はこの写真をトップで「フォー ホースメン疾走する」と掲載した。

二人のハーフバックのうちドン ミラーは体重約73kg、ジミー クロウリーは74kg、フルバックのエルマー ライデンはミラーと同じ73kg、クォーターバックのハリー スタウルドレアーは70kgと軽量であった。
以前述べたようにロックニィはペップ トークと宣伝のうまさには大統領も教えを請うほどトップクラスであったと云われている。
この1924年のシーズンは10勝無敗と完璧なシーズンであり、これまでと違って初めて満場一致の全米チャンピオンに輝いた。

カレッジ フットボールも人気が出てきたのは事実だがこの当時はまだイギリス出身の記者はサッカーをトップに、ニュージーランド出身の記者はラグビーをトップにするような時代だった為、ロックニィは何とかトップニュースになるような見出しを考えていた。
結果として全米の記者はロックニィの意図にはまってしまいカレッジ フットボールは全米の注目を浴びるようになっていった。

現にこの1924年は断トツの1位で全米チャンピオンになったが、ノートルダム大にはいつものような大スターも不在で、4人のバックス陣も一人一人の記録や活躍を見ても目を見張るようなものはなく、結局それらをグループにし「フォー ホースメン」として売り出した宣伝の旨さによるところが大きかったと後に記者達は語っている。
だが、同じ時期の1924年にアメリカン フットボールを真のNo.1スポーツに押し上げた本当の大スターが登場した。

「フォー ホースメン」が紙上を賑わしている時に、アーミー対ノートルダム大の試合が行われていたニューヨークのポロ グランドから1,200kmも離れたイリノイ州のシャンペインにあるイリノイ大の新設のスタジアムに強豪ミシガン大を迎えフットボールの試合が1924年10月に行われていた。だが最初の12分で勝負は決まった。

イリノイ大のハーフバック、レッド グレンジ(写真・27)が第1Qの12分で一人で4タッチダウンをあげた、しかもボールを持った回数は4回即ち一度持ったら全てゴールまで走ったということであるが、その距離は93ヤード、67ヤード、56ヤード、44ヤードの距離であった。ちなみに当時のヘッドコーチで後の指導者に大きな影響を与えたボブ ザップキィはグレンジには20分与えるだけで充分だと言った。現にこの試合も4TD後、後半開始まで出場せず後半すぐに再び5ツ目のTDをあげ最後は走るだけではなく18ヤードのTDパスを投げて試合を終わった。グレンジは大学で3,647ヤード走りこの大記録は当時では永遠の記録と思わせるほどの大記録であった。

1925年グレンジはプロ フットボールのシカゴ ベアーズに入団することになるが最初のデビュー戦のカージナルス戦の入場者は36,000人とスタジアムが溢れるほどであった。1週間後にニューヨークに遠征しジャイアンツとポロ グランドで試合したがこの時は68、000人の大観衆が「ギャッロッピング ゴースト」(タックルしてもスルスルとすり抜けてしまうので疾走する幽霊と名付けられたレッド グレンジのニックネーム)をひと目見ようと詰めかけた。

とにかくレッド グレンジのプロ入りがきっかけでそれまでカレッジ フットボールの後塵を拝していたプロ フットボールも多くのファンを呼び、同時にアメリカン フットボールをアメリカ人の最も愛するスポーツ、大観衆が熱狂できるスポーツとして文字通り NO.1スポーツにしたのである。

− 完 −
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