久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第20話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第10章

ロックニィは5才の時ノルウェーから両親と共に移民としてシカゴにやってきた。
近くに住む子供達から初めてフットボールを教えてもらい病みつきになっていった。
そして、地元の「ローガン スクエアー タイガース」というクラブチームでランニングバックとしてプレーするまでになった。

シカゴの高校に行ってもフットボールをやり、やはりランニングバックとして活躍していた。高校卒業後は大学への入学資金を作るためシカゴの郵便局の郵便配達員として働き、1,000ドル貯金し念願のノートルダム大に入学することができた。

1913年の夏、ロックニィはオハイオ州のシーダーポイントの浜辺でチームメイトのガス ドレイスと当時まだパス攻撃が未熟だった時に毎日二人でフォワード パスの練習をした。その秋のシーズン、ノートルダム大より圧倒的に強く予想でも大差をつけて勝つだろうと云われていたアーミー(陸軍士官学校)と対戦することになったが、予想に反してドレイスとロックニィのコンビによるパス攻撃が冴え渡り35−13という予想外のスコアーで勝ち大番狂わせを演じ世間を驚かせた。(この話は「長い灰色の線」というタイトルで映画化され大ヒットした) そして、1914年26才でノートルダム大の薬学部を卒業し、化学薬品会社に勤務しながら母校のコーチを手伝ったりしていた。

しかし、フットボールが大好きだったロックニィは大学から正式なコーチとしての就任要請がくるとあっさり会社を辞めた。 そして、エイモス アロンゾ スタッグ率いるシカゴ大のQB(クォーターバック)を務め、スタッグの秘蔵っ子でもあったジェシー ハーパーによってかなりのチームに仕上げられていたノートルダム大のレベルをより高める為に1918年からコーチを任せられる事になった。

ロックニィは後に「ノートルダム シフトとかモーション、フォワード パス等を自分が最初に使用したとか言う人がいるが、キャンプやスタッグ、ポップ ワーナー、ハイズマン達の名コーチのコピーをしただけで私は少しも偉くない、フットボールの発展はキャンプ、スタッグが育ったイエール大学と過去の偉大なコーチ達を称賛するべきだ」と話した事があった。実際、スタッグの影響は随分と受けたようであった。

インディアナ州シカゴ郊外のサウスベンドにある無名のノートルダム大をあっという間に全米で知らない者はいないと云われるほどの有名校におしあげたニュート ロックニィはコーチ就任僅か13年間で105勝12敗5分、5度の全米チャンピオンに輝くなど素晴らしい成績を残した。
このノートルダム大には日本のフットボール選手や関係者でも憧れの念を抱き、フットボールの聖地のような感覚の人々も多いと思われます。

そんなロックニィにも過信から大失敗を犯したことがあり、生涯この過信を選手にはもちろんのこと自からも戒めた。
無名で決して強くはなかったカーネギー工科大との試合を若いアシスタント コーチに 任せ、自身は次の週に対戦する宿敵のアーミを偵察する為、一人だけでアーミー対ネイビーの試合を観戦しにいった。

試合終了後、ロックニィは目を疑うような電報を受け取った。
ノートルダム大がカーネギー工科大に19−0で敗れたという内容だった。スコアーの書き間違いだと思い確認したが本当であった。
この年、全米チャンピオンの座は間違いないと云われていたことも全て不意になった。
以来、ロックニィはどんな相手に対しても油断と過信はしないようになったと自ら語っている。
そのロックニィも1931年3月31日に「ノートルダム魂」という映画作りに参画し、カンサスシティにいる二人の息子に会うために立ち寄って帰路に就くため離陸した直後搭乗機のTWA599便は突然主翼が外れ小麦畑に墜落し、アッという間にまだ43才という若き生涯を閉じた。

ニュート ロックニィは歴史に残る名コーチだったが、優秀な営業マンというより優秀な広報マンでもあった。
彼は時の大統領よりもスピーチが上手いと云われる程話が上手であった。(写真・24)
ハーフタイムのロッカールームでロックニィが選手に話し始め、その話しを聞いて後半戦の為にロッカールームを出ていく選手の殆どは感動して涙していたという。
前半に接戦で負けているような時にロックニィが選手を励ます為に好んでした話がある。
今でもノートルダム大に伝説として残る若者の話である。

1917年の秋に凄いパンターがいるという噂を聞いたロックニィが大学のキャンパスをぶらぶら歩いているとフィールドの方からボールを蹴る音が聞こえてきた。
そしてフィールドに行って見ると60ヤードのパントを蹴っている若者が一人で黙々と練習していた。
身長は183cmとまずまずだったが、やせているように見えた。それが、ジョージ ギップとの最初の出会いだった。(写真・25)
足下を見たらフットボール シューズではなくカジュアルなタウン シューズだった。

ロックニィは見慣れない学生に「どうして新入生のグループに入って練習していないのか」と聞いたら「フットボールは私には関係ありません、野球とバスケットボールの奨学金でこの大学に来たんですから」、「怖いからか」とロックニィが再び問い返すと、「怖いですって、自分には怖いなんて全くありません」、「それなら1時間以内に本物のフットボール シューズを持ってくるから、少し待ってるように」と云ってロックニィは大急ぎでクラブハウスに行きシューズを持って帰ってきたが、ギップのサイズを知らないのにピッタリだったという。 ギップはその日の午後にはフットボール部の練習に参加していた。
コーチのジェシー ハーパーとロックニィはギップの運動選手としての素晴らしい天性とも云うべき才能に驚かされた。
だが、入部したその年は骨折し殆どプレーすることもなく短いシーズンを終えた。

翌年、ロックニィが初めて正式にヘッドコーチになった時、ギップは学校を辞めてしまった。ところが、1919年にまた学校に戻ってきた。
ここからギップの様々な伝説が始まることになる。
1919年、アーミーとの伝統の一戦は前半を9−0とノートルダム大はリードされていた、審判は前半終了の合図をしようとホイッスルを持ち直し、まさにそのホイッスルを吹くために口元に持っていこうとしたのを見たギップはすぐに「俺に早くボ−ルを渡せ」と言い、それを聞いたセンターはすぐギップにボールをスナップした。
ギップはあっという間にゴールラインを飛び越え、その後も得点を重ね12−9で逆転勝ちを収め、ヘッドコーチ就任2年目のロックニィに無敗のシーズンと全米チャンピオンのタイトルをプレゼントした。

その翌年も無敗でシーズンを終えロックニィは2年連続2度目のナショナル チャンピオンの座に就いた。
ジョージ ギップの名は全米に知れ渡るようになり、あの天才アスリートのジム ソープと比較されるほどになっていた。ソープと比較されるだけでも名誉なことであったが、ギップのほうがパスとキックは上手いのではと云われるほどになっていた。

実際にそれを証明してみせたのが1920年のアーミー(陸軍士官学校)との試合での事であった。
試合前のエキジビションで現在の野球のホームラン競争のようなもので、「フィールドゴール コンテスト」がありアミーからはレッド リーダー、ノートルダム大からはジョージ ギップが競うことになった。
ボールは20ヤード、30ヤード、40ヤードと段々距離を長くしていくのだが、リーダーは40ヤードでギブアップした。だがギップはボールを50ヤードライン上に4個置き全てドロップキックでゴールポストの中央に蹴り込んだ。

結局、この試合でもパスで2TDをあげ、ランプレーで124ヤード走り一人で合計332ヤードも獲得し、27ー17でアーミーを下した。

ギップの活躍が更に凄かったのが翌週のインディアナ大との試合だった。
ギップは試合中に肩が外れ鎖骨を骨折しサイドラインに運ばれたが、特に治療もせずただ包帯を巻くだけでベンチに座っていた。

ギップはそれでも自軍の不利な戦況を見て、ロックニィに出場したいと強固に訴えたがロックニィはベンチにギップを押し戻した。 試合は最終の第4Q(クォーター)に入り10−0とインディアナ大にリードされていた。ノートルダム大も必死の反撃を試み、相手ゴール前30cmまでボールを進めた。

そこで、ロックニィは遂にギップをフィールドに送り込んだ。1発でエンドゾーンに飛び込み、PAT(ポイント アフター タッチダウン・・・後に TFPとなる)のキックも決めた。(写真・25A) 残り時間が少ない為、ギップはそのままプレーを続け、肩を負傷しているためサイドスローでボールを投げインディアナ陣15ヤードまでボールを進めた。 そして、ドロップキックを試みたがボールが高くそのままゴールに向かって走っているエディ アンダーソンに両手でボールを放り投げこれを見事に補球しゴール前1ヤードまで前進した。
インディアナ大の守備陣は全員次のプレーのボール キャリアをギップ一人に的を絞った。ギップは相手の予測を読んで自分がボールを持つふりををして僚友のジョー ブランディにボールを持たせ大逆転劇を演じた。

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