「アソシエイション フットボール」も「ラグビー フットボール」もイングランドから世界各地に普及していったが、イングランドが1707年に植民地化を計ったアメリカ大陸も同様だったと考えられます。 それは1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達して約200年後に起こった。
16世紀、大英帝国教会に異を唱える人々は弾圧を受けていた。 そこで、1620年の夏、サザンプトンからアメリカ大陸のヴァージニア植民地に向けて2隻の船で出帆した、だがスピードウエル号が水漏れを起こし帰国することになり結局102人の清教徒と27人の船員を乗せた残りの1隻の「メイフラワー号」のみが向かう事になった。 2ヶ月にも及ぶ航海であった為、塩づけにした以外の食べ物は腐り、他には乾燥したものぐらいしかなくビタミン不足による病気が蔓延し、結局ボロボロの状態で66日後の11月11日に当初の到着予定地のヴァージニア植民地ではなくケープコッドのプロビンスタウンに到達した。
しかし、ニューイングランド地方の寒さは住む家もなかった清教徒にとっては過酷そのもので毎日住む家を作ることに専念するが体力が続かず、到着時のメンバーの半数は冬を越せずに亡くなりました。 当時、清教徒達は農耕も充分にできず困っている時に先住民のインディアンと出会い、彼等から魚の調理法や鹿や七面鳥の狩猟の仕方、肉の調理の仕方、また食べられる植物と薬になる薬草の見分け方等を教えてもらい生き永らえていく術(すべ)を学んでいきました。それ以降、収穫の秋を迎えると彼等はお世話になったインディアン達を招待し、3日間も収穫を祝うお祭りを行いました、これが現在でも続いているサンクス ギビング デイ(Thanks Giving Day)、11月の第4木曜日の感謝祭の始まりだと云われています。 宗教、文化、遊戯(スポーツも含む)などは中国の蹴鞠と同様必ず物品の交易と一緒に伝達されるものです。 日本の戦国時代でさえキリスト教の布教と共に鉄砲、軍艦、洋服、ワイン、時計、地球儀などがポルトガルから伝わってきました。もちろん中国からはもっと早く火薬や蹴鞠も仏教と共に伝来しました。 当然、イングランドから「アソシエイション フットボール」や「ラグビー フットボール」もアメリカ大陸に伝わったと考えられます。
1820年といえばあのエリス少年がラグビー校でのフットボール ゲーム中に突然ボールを持って走り出した時の3年も前の事です。
その1820年にアメリカの先住民の間では「BALLOWN」と呼ばれていた「Kiccking Game」即ち「蹴球」がプリンストン大学で行われていた。 北米大陸の東部地区の他の大学でも独自のルールで「Kicking」を主とした球技を行っていた。もちろんボールを持って走る事はなく手を使うことはあったが、それは転がっているボールを止める時ぐらいであった。 東部の名門大学間ではこのようなフットボールがその後ほぼ50年ほど続くが、1827年から「Bloody Monday」(血まみれの月曜日)という独自のフットボールを行っていたハーヴァード大が、1860年フットボールを突然辞める事を決めた、上級生からのいじめや乱暴な行為を減らしていこうという大学の方針によるものであった。
以来学生達はゲームにまじめな態度で取り組み、相手と当たる時もルールに基づいてハードであったがクリーンなヒットを心がけていった。 また、1855年には店でゴム製のボールが販売されるようになり、1862年には先住民のオネイダ族がボストンで最初のフットボール クラブと云われている「オネイダ フットボール クラブ」(写真・8)を創立した。このフットボールはサッカーとラグビーの良いところを取り入れミックスしたような形態のゲームでもあった。
これが、後に「ボストン ゲーム」というフットボールになっていった。
この「ボストン ゲーム」がボールを持って走る事が多いので、これがアメリカン フットボールの始まりだという人もいるがまだまだサッカーの要素の多いゲームであった。
そして、1869年11月6日 午後3時にニュージャージィのニューブランズウィックでラトガーズ大学とプリンストン大学が初のフットボールの大学対抗試合を行った。 (写真・9)(写真・9A) しかし、実際はその2年前の1867年にプリンストン大とプリンストン神学校との間で各25名づつの選手で予行演習のような練習試合が行われていた。
さて、ラトガーズ大とプリンストン大の試合ですが使用されたボールは丸いボールで、ルールもイングランドで行われていたサッカーのルールであった。 この試合を最初のアメリカン フットボールの試合と云う人が多く、現実にアメリカでは1969年にアメリカン フットボールの誕生100周年記念と銘打って試合やセレモニーを行っている。 しかし、アメリカの大学での最初のフットボール(サッカー)の対抗戦であってアメリカン フットボールの対抗戦ではないと思われます。
この対抗戦は両チームとも3試合行うことで合意していた。
最初はラトガーズ大のルール(手で空中にあるボールをたたき落としてもよかった、選手の数は25名など)で行われ、風が強く寒い日であったにも拘わらず約100名の観客が詰めかけた。
勝敗の取り決めは両キャプテンの合意の下で時間には関係なく先に6ゴールしたほうが勝ちということで決まりスタートした、ゲームは伯仲し同点、同点のシーソーゲームになったが4対4からラトガーズ大が続けて2ゴールし6対4で勝った。
これを見ていた識者は余りにも激しいゲームだったので、この試合のリターンマッチは中止したほうが良いという意見を提出したほどであった。
しかし、その1週間後の11月13日リターンマッチはプリンストン大のホームでプリンストンのルール(空中のボールを手でキャッチした後フリーキックが許されていた)で実施された。今度は両キャプテンの合意で8ゴール得点したほうが勝ちということで始められた。結局、プリンストンが地元の利という事と自分たちのルールに基づいて闘った事でリベンジを果たし8−0で圧勝した。この圧勝には訳があり、この時のラトガーズ大の選手は大きくはなかったがスピードがあり、プリンストン大の選手は背が高く大柄であったが動きは鈍かった。当時はユニフォームがなかったが観客は自ずとどちらの選手かすぐ判ったという。プリンストン大はホームゲームの際、背が高いという利点を自軍のルール即ち頭上でボールをキャッチできるということでより有利にし圧勝に導いた。 その後コロンビア大、イエール大なども選手数を20名としてフットボールの試合をするようになった。(写真・9B)
そして、1873年10月20日、ニューヨークの五番街ホテルでイエール、コロンビア、プリンストン、ラトガーズの4大学で大学対抗戦ルール委員会を結成した。 その後イエール大は「イートン プレーヤー」という「イートン フィールド ゲーム」から名付けられたイングランドのチームと対抗戦ルールで決められた出場選手数20人ではなく11人で闘って勝利した。 1873年の冬にはルール委員会でサッカーが認められ、1876年11月にはラグビーが認められたがアメリカン フットボールへの道のりはまだまだ険しかった。
ボールを持って走ってもよいという「ボストン ゲーム」を行っていたハーヴァード大は4大学の作成したサッカーを基本としたルールには同意できないので、東部の大学とは試合ができなかったが、1874年5月14日イングランドのラグビールールでフットボールを行っていたカナダのマクギル大学と3試合行うことで合意した。(写真・9C)
最初の試合はサッカーボールを使ったハーヴァード大のルールで、次の2試合は楕円形のボールを使ったマクギル大のルールで実施することも決まった。結果、ハーヴァードの2勝1分けとなり、これがきっかけでハーヴァード大はラグビールールを取り入れることに決めた。(写真・9D)
そして、1875年11月13日、古くからのライバルであるイエール大学とラグビールールで試合をすることになったがイエ−ル大は0−4と完敗を喫してしまった。
この試合を観戦していた2人のプリンストン大学の選手が、すぐ大学に戻りその試合の状況を説明し、こんな面白いゲームはないから是非我々もこのゲームに参加しょうと他の部員を説得した。 1876年11月23日、マサチューセッツのスプリングフィールドにある「マサソイト ハウス」にハーヴァード、イエール、プリンストン、コロンビア大が1874年にラグビールールをベースにして行われたハーヴァード大対マクギル大の試合を参考にした新しいルール作りの会議が行われた。これまでとの最大の違いはエンドゾーンへのタッチダウンはあくまでもゴールにキックする権利を得るためのものであったが、タッチダウン自体が得点として認められるようになり、後にラグビーもトライという呼び方で得点として認めるようになった。また、丸いゴムボールの代わりに楕円形の皮で覆われたボールを使用する事も決められた。この会議の後、ハーヴァード大、コロンビア大、プリンストン大の3校のみで大学対抗戦協会を結成することになった。 だが、イエール大は協会の提案する15名という競技人数に同意できなかった為、メンバーから外れることになった。 この時、会議の1週間前に後にフットボールの歴史を大きく変えることになる17才の新人がイエール大学でプレーしていた。
現在「アメリカン フットボールの父」と呼ばれるウォルター C.キャンプであった。(写真・10) キャンプが高校を卒業した時にイエール大はラグビールールを受け入れていた。
しかも、1876年に4大学で行われたルール会議の席にまだ1年生だったキャンプがイエール大の代表として出席し、それ以降その会議には死を迎える1925年まで出席し続けた。(写真・11) キャンプは野球では誰よりも早くカーブボールを習得し、走ればニューヘブンで一番と云われるほど早く、学業のみならずスポーツも万能であった。
イエール大ではボート部でエイトを務め、フットボール部と野球部のキャプテンをも務めるというスーパースターでもあった。(写真・11A) キャンプはルール委員会で様々なアイデアを提案をするが全て拒否されてしまう、だが1チームの競技者数を15名から11名にするという提案はかたくなに主張し続けた、この時まだ19才の青年であった。 1880年になって11名という人数の取り決めが承認され、キャンプはスクリメージ ライン(LOS・・攻撃選手と守備選手の間の仮想ライン)とクォーターバック(QB)の提案をしこれも認められた。(写真・11B) 最初はボールを現在のラグビーのようにセンターが足でQBに押し出していたが、後にセンターからQBに手で後方に直接パスするようになった。(写真・12)
これらの斬新なルールが次々と決められていくと、プリンストン大は次に面倒な問題を起こし世間を騒がせた、しかしこのことがサッカー、ラグビーとハッキリと決別し、アメリカ人によるアメリカン フットボールが誕生することになるのである。
プリンストン大は自軍がボールを持つとキックを放棄し相手にボールを渡さないようにし、その事で引き分けに持ち込むことを実行した。この為ダラダラとスクラムを組むのを見せられるだけでいたずらに時間が過ぎるだけで攻撃が見られない試合に観衆は大いに不満を抱き、この事件は各新聞でもトップで扱われるなど大問題になった。(勝てないが絶対に負けない作戦)
そこで、1882年キャンプはボールの所有をハッキリさせる為に3回の攻撃で5ヤード進まなかった場合、ボールの所有権は自動的に相手に移るというアイデアを出し、後に3回の攻撃で10ヤードに変更されたが10ヤード前進するには攻撃の回数が少ないということで現在の4回の攻撃で10ヤードというように変更されていった。
これで、ボールの所有がいつどうなるか判らないサッカーやラグビーとの決定的な違いがより明確になった。
これら以外にもフィールドの大きさなどをはじめとしキャンプは毎年のようにルールを変えていった。(写真・12B)
1883年には得点の方法を何度も変更し、1887年には試合時間を前、後半45分づつの90分にし、1888年には腰から下へのタックルを許可し(写真・12A)、1889年には審判員にホイッスルとストップウォッチを持たせた。
これらを顧みるとキャンプなしに現在のアメリカン フットボールは考えられないし、「アメリカン フットボールの父」と呼ばれていることもよく御理解いただけると思います。