久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第15話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第5章

これまでの過程を見ると「アソシエイション フットボール」の支持者のほうが圧倒的に多いように思えるが、パブリック スクールの多くはラグビー校を中心とするラグビー フットボール(写真・5)を支持し、特にスコットランドの東部やアイルランドではその傾向が強かった。

そんな時、リッチモンド クラブの選手がラグビー方式のフットボールの練習試合での事故が原因で死亡した事がきっかけで、1871年1月にブラックヒースとリッチモンドの両クラブが提案しトラファルガー スクェアーの近くのコックスパー通り沿いのポール メール レストランで会議することを22チームに連絡した。 だが1チームだけ泥酔して場所がわからなくなった為、結局21チームのメンバーで会議が行われ再度ルールの確認がなされ、遂に1871年「フットボール アソシエイション」に対抗するようにラグビー フットボールの支持者達によって「ラグビー ユニオン」 (写真・6)が設立されることになった。

そして、エリスが亡くなって1年後の1873年にオックスフォード大とケンブリッジ大の最初のラグビー対抗戦が行われた。

サッカーを支持するメンバーは相手のスネを蹴るような行為は危ないだけではなく、どう考えても紳士的なスポーツとは思えず卑怯者のする事だと言いこの行為に反対したが、ラグビー派はそのような行為は男としての精神修行(日本で云う根性試し)であると言い張った。

しかし、単なる負傷にとどまらず骨折者も続出するような状況であった事も事実であった。 そんな中でもラグビーを支持する人々は「ラグビーは紳士のスポーツである」と言い張った、その所以は試合が終われば敵味方はなく観客席も対戦相手同士が離れて応援するように設置しないなど(実際は運営上の問題などでそんなことはないようだが)、試合が終わればどちらのサイドもなくひとつであるという意味での「ノーサイドの精神」、それと試合が終わった後にひとつの部屋で両チームが一緒に軽食をとるという習慣などからきているが、これらはまだサッカーやラグビー等とハッキリ区分けされていない「フットボール」とボールを扱う競技を全てひとくくりにしていた頃からこのような習慣はあったので他の競技大会でも行われているものもあるが、その一部分をラグビー ユニオンが引き継いだということではないだろうか。

私自身、早稲田大学でアメリカン フットボール(早稲田大では正式には現在でも米式蹴球部、ちなみにサッカー部はア式蹴球部です)をやっていました、在学中は毎年春の早慶戦に限っての事でしたが、試合前は球技場の大きな部屋に両チーム全員が集まり、サンドイッチと飲み物の軽食をとりながらお互いの新入部員の自己紹介があり、歓談のあと両校の校歌を交換し健闘を誓いグランドに出るという習わしでしたが、現在は定かではありません。

また、1980年代に知人のプリンストン大学のOBで1951年に最も優秀な選手に贈られる最高の栄誉でもあるハイズマン賞を受賞したディック カズマイアー氏(写真・7)に招待されアメリカでの伝統的な対抗戦であるプリンストン大とイエール大のアメフトの試合を観戦した時も試合終了後にスタジアムの大食堂に名だたるOB達も出席の中、両校がエールの交換をし軽食をとりながら歓談するひとときを体験しました。 アイビーリーグの対抗戦では100年以上も前から全ての学校で同様に行われているということでした。 「英国紳士」という言葉で知られるように英国がかかわるものは紳士的とみなされ、ラグビーも英国から世界に普及していったスポーツである為、必然的にラグビーも紳士のやるスポーツという事になったのではと思います。 いずれにせよ、現在のサッカーとラグビーはフットボールという用語で一緒にされていたものが、ここでハッキリと袂を分かつ事になりました。

だがその情報を聞きつけたスコットランドから「ラグビー ユニオン」に発足後3ヶ月も経たないうちに試合の申し込みがあり、イングランドはスコットランドまで遠征するがイングランドはまだ「アソシエイション フットボール」の試合と思い込んでいたところ、スコットランドがボールを持って走り出しゴールを決められ、イングランドは唖然としルール違反だと猛抗議し、初の国際試合ということで帯同してきたサポーター達もこの試合は無効だと収拾がつかないほどの大騒ぎになったが、この歴史的なゲームの主審を務めたアーモンド氏は結局大騒ぎした方を敗者とするという信じられないような判定をしスコットランドに軍配をあげた。

このように「ラグビー フットボール」はしばらく「アソシエイション フットボール」との間でギクシャクした関係が続いたものの、愛好者はどんどん増え、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南アフリカなどの国にも普及していった。

このラグビーをニュージーランドのネルソンという町からイングランドに留学していた青年が故郷に帰りそのラグビー フットボールを教える事になるのだが、ネルソンでは元々サッカーが行われていたがその一方でオーストラリアン フットボールの原型と云われている「ヴィクトリアン ルール」という球技を行っていた。 そして、「ラグビー ユニオン」が発足する7ヶ月前の1870年5月14日、ニュージーランドで初のラグビー フットボールのルールで「ネルソン クラブ」と「ネルソン カレッジ」の間で試合が行われ、このゲームが後のラグビー王国を築くことになった。

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